花冷えの夜


互いのテリトリーを侵害せぬよう散在するいくつもの鉄筋コンクリート造りの建物から、巣立つとか羽ばたくという言葉が目立つメロディが流れる。どこかしら似通っているそれらの建物のはっきりとした違いは、せいぜい施設の古び方とピロティや中庭に置かれた銅像のモチーフ、教室に並べられた机の数、門扉に掲げられた看板に浮き彫りにされた文字と校章。

ほんの少しのセンチメンタリズムとずいぶん漠然とした希望を胸に抱きつつ、生徒たちは義務教育の場を去っていく。出席番号の末番と生徒の頭数が合わないクラスであっても、そのことに変わりはない。


戸車が回る音に耳をそばだて、玄関の引戸を閉める。最後まで気を抜かなければ、それ以上の音は出さずに済む。錠を下ろすと、こればかりは仕方なくことりと小さな音が立つ。砂利を踏まぬよう門までの飛び石を辿る。門の脇にある松の古木の手前には、馬酔木が鈴なりに花を付けている。今にも鈴の音を響かせそうな花房が垂れるころになると、少年は夜の散歩に出かける。馬酔木は指標だった。


夜、出歩くようになったきっかけは、自分用の鍵を与えられたことだった。「家の鍵です」と母親の筆跡で書いてある封筒を学校の下駄箱で見つけたのは何年前だったか。中にはキーホルダーのついていない鍵が入っていた。弟がクラスメートに怪我をさせたと学校中で噂になっていた日だったと要は記憶していた。



疏水と並行して走る歩道はもとから狭い上に土手に植わった雪柳がひとの進入を拒み、そこに道があることを知っている者でなければ足を踏み入れない。高さが足りないなりに白く枝垂れる枝を手と足で掻き分け掻き分けゆるいカーブを過ぎると、そこから先のわずかな直線はささやかな桜並木となっている。春とは言え夜。そして川べりのこと。小さく身を震わせ、何か羽織ってくれば良かったかと肩を抱く。目当てのつぼみは固く、気を惹くものは水音ばかり。

まだ時季には早いと分かっているけれど、最初に咲く一輪の桜を見つけるために、馬酔木が咲くころ毎年ここへ足を運ぶ。

夜歩きが一週間も続くころ、ようやく夜目に白い桜花を見つけ、要は訳もなく誇らしい気持ちになる。
「僕が咲かせたんじゃないけど」

語って聞かせる相手はいないが、微笑って独りごちるとだれかが肩に触れたような気配がある。足もとに空想の犬が身を擦り寄せてくる。

咲き始めると日を追うごとに花の数は増えていく。川面にせり出す枝は水の冷たさに咲き遅れ、焦って揺れる。

幼いころの思い出が桜を懐かしく思わせるのか。自分が忘れてしまったどこかで、こんな花ざかりの森を見たのだろうか。紗がかかったような風景には桜ばかりではない花が咲き揃っている。


遅れた花が咲くころ、盛りを過ぎた花たちは若葉に座を譲りいっせいに散り始める。花びらが風に舞うさまは何かに似ていて、少年はひどく焦燥感にかられる。

降りしきる雪の記憶は白い腕が招いてくれた中庭でのもののはず。深い藍色の空をバックに彷徨う無数の白。息を殺し、一枚の花びらの行方を追えば水面に落ちてさらわれていく。この時季、水の流れは速い。定まった行く先は闇へ続き、消えていく。

花の行方を追うことに飽きると、土手のコンクリートが草むらとの境に作る段差に帯状に広がる花びらの吹き溜まりにスニーカーを履いた足を下ろしてみる。花びらを踏みしめながら、こんな風ではなかったと思う。これは違う、と。地を埋め尽くす花びらではないもの。その感触を足裏に感じながら歩いたことがある。




遠く、貨物列車が線路を軋ませ走る。

ここではないどこかへ。

桜に連れて行かれそうな、こんな花冷えの夜。



2013.05.30

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