桂花に寄せて


無遠慮なまでの陽射しは慎みを取り戻し、熱気に痛めつけられていた草木も雨に洗われて生気を蘇らせていた。つい先日、中日を迎えたばかりに思えるのに、急に宵闇の訪れが早まった感のあるこの頃。昼と夜の狭間で彼方に外宮を臨む園林の片隅に人影があった。
「道に迷ったみたいだ」

黄昏の中、白く髪を光らせた長身の青年が小路を外れた主の許へと近寄ると、彼女は眼下に目を向けたまま気のない様子で仁重殿の敷地にいる訳を口にした。

麒麟を訪ねるために理由を必要とするのは、陽子ではなく周囲だった。たとえそれがあからさまな詭弁であっても。彼らの心情はわかるので、しきたりではない習慣にあえて縛られてみせる。
「大僕をお連れにならなかったのですね」

声にわずかな非難の色が滲んだ。
「正寝を出るつもりはなかったから」

初めて緑色の瞳が景麒に向けられた。だから迷子になったと言っただろう、となぜか得意げに側近ならば誰も信じることができない言い訳を繰り返す。睨みあったままの沈黙の後、してやったりと笑う人物がひとり。してやられたと苦笑する者がひとり。

気配が和むと、朗らかな声で告げられる嘘を認めることになるひと言。
「朝議のときに気になったから、確かめに来たんだ。やっぱり気のせいじゃなかった」

この辺りに朝からかすかに甘い香りが漂っていた。

ある朝突然匂い立つ金色の花は、堯天ではよく出会う花樹であったが燕朝では見られなかった。
「金波宮でこの匂いを嗅ぐのは初めてだ」

――この樹はあちらにもあったんだよ。

心の中で半身に打ち明けてみた。
「金木犀ですね」

当然のことながら景麒の返事には何の感慨も窺えない。彫像のように隙のない姿を眺めながら、ため息をつく代わりに陽子は言った。
「……どういう字を書くの?」

――おまえは何と呼んでいるの?

そう問うべきだっただろう。知りたいのは彼の呼ぶ花の名なのだから。意図して意味を曲げられた問い。

ほんの少し首を傾げ、所在無げに教えを待つ主のために僕は中空に文字を書き記す。整えられた爪が長い指の先で薄闇に淡い光沢を放つ。
「丹……」

次の文字がわからなかった、と陽子が言う。景麒は再び手を宙に伸ばしかけた。しかし無言のまま胸元近くに差し出された幼さの残る掌に気づくと腕を下ろし、自分を見つめる顔に視線を返した。差し出された掌に端整な手を添えると、少女が息を止めた。青年はゆるく握った拳から躊躇いがちに人差し指を伸ばすと、日頃、剣を握ってまだ柔らかな掌に彼女がわからないと訴えた文字を書いた。
「桂、と」

預けられた手をそっと放し、支えていた手をもう一方の手で覆った。
「丹桂と書きます。蘭桂の桂です」
「丹桂」

麒麟の形の良い口元を見つめ、真似てみた。
「長楽殿では香りがしなかったんだ。ここならわかる」
「西園か三公府のどこかにあるのでしょう。正寝からは少しばかり遠い」
「お好きならば、ひと枝届けさせましょう」
「いや、いい。……もう戻らないと」

すっかり日が落ち、暗くなった園林に園丁が灯りを入れ始めたようで、遠くからぽつりぽつりと橙色が近づいてくる。

暗い足もとに大して注意も払わず駆け出そうとする少女を追いかける声。
「今しばらくは香りが楽しめましょう。……こちらなら」

口早に付け足された最後のひと言がふたりの耳に残る。

景麒は自分の口から出た言葉を訝しむ。

発した本人よりも込められた意味を正確にくみ取り、少女は青年を振り向いて大きく手を振った。



2012.10.22

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