瑞瑞しい唇が、苦笑を交え独り言のように不満を告げた。
それは陽子の言。今日はもうこれで長楽殿に戻ると言って、広徳殿内に設えられた州侯の房室の堂扉へ向かおうと、席を立った時だった。足元に視線を落とし、少し前のことを反芻しているようだった。
「どの部分でしょうか」
今しがた嵌め込んだばかりの白い留め具を外そうと書卓に残された帙に手を伸ばしながら、瑛州候が尋ねた。この一刻ばかりの話の中で、説明を端折り過ぎた部分が彼女は気になるのだろう。
「……慶の説明」
顔を上げ振り向いた少女は、手を伸ばしたまま動きの止まった青年を目にしてくすりと笑った。
「州府の政務に関する説明はとてもわかりやすかったよ」
一瞬ののち端然と姿勢を正した景麒は、陽子の視線を捕えた。長く時を過ごした蓬山に思いを馳せる。
「……東の国だと申し上げました」
こちらに来た当初のことを痛みを伴わずに陽子が話せるようになったのはつい近年。今は亡き隣国の仁獣が残した手の甲の傷痕も薄れ、知らぬ者の目には何かの影としか映らなくなった。忘れ去ることはできないが、昔のことだと思えるようになった。
「今でも、あんな風に言う?」
あの時は――とあらぬ方向を見ながら言い訳をする景麒を想像しながら、陽子は問い掛けた。しかし、彼女を見詰めたまま、何ら迷いを見せることなく示された答えは予想を裏切っていた。穏やかだが躊躇いのない声が告げる。
「幾度でも同じように申し上げるでしょう」
かの国の方角をちらと見遣った後、こう続けた。
「……泰麒にも同じ説明を差し上げました」
それまでになんとか泰麒に使令を持たせてさしあげたいと願った夏至を迎える日。
明け方近くまで黄海で妖魔の折伏を試み、すべてが徒労に終わった黒麒は疲れ果て、汕子に抱き抱えられて蓬廬宮へ戻った。
「せっかく教えて下さったのに……。済みません」
露茜宮へ泰麒を送り届けると、銀鱗に覆われた首に縋りついた泰麒はか細い声で景麒に謝罪した。
「お謝りになる必要はない」
慰めの言葉に泰麒はさらに情けない思いがして、涙が滲んだ。
――またわたしが叱られてしまいます。
そう言って景麒はふと露茜宮の背後に続く高台を見上げ、泰麒に最後にもう少しだけ付き合って欲しいと乞うた。
やわらかな苔を踏みしめ、まだ景麒が蓬山公と呼ばれていた頃に頻繁に訪れた場所である蓬廬宮の最深部へと歩を進めた。捨身木を過ぎ、蓬廬宮の果てにある砂礫の目立つ断崖の端に至りようやく立ち止まった。
「泰麒の生国はあちらに」
絶え間なく吹く風が行く先を変えようと躊躇う瞬間、朝焼けに赤く染まり始めた一点を指し、年嵩の麒麟が幼さの残る麒麟を振り返る。陽が昇る。
「慶国はあちらです」
崖下から吹き上げ始めた風に乱れる鋼色の髪を払いもせず、汕子に抱かれた泰麒が顔を綻ばせた。
「ああ、景台輔――」
華山で一夜を過ごし、朝を告げる鳥たちがまだ目覚めぬうちに、雌黄の幼獣は山肌を蹴り、狭い岩棚から中天へゆるやかに駆け出す。幼いとはいえ麒麟の足である。女怪を置き去りに駆けて行こうとする蓬山公の影に芥瑚は入り込んだ。
明けやらぬ空が紫紺から闇に転ずるところが金剛山の頂きなのだと、風脈の中から女怪が教える。おぼろげな光が地平線を露わにする。紫紺であったものが闇から明確に分かたれる瞬間、麒麟は疾走を始める。
華山からの帰路、陽光の射す方角に蓬山は位置する。まだ金剛山を越えること能わない幼い麒麟は眩しさに顔を背けることもせず、光を目指す。
――慶東国。
景麒が思いを馳せるのはまだ見ぬ生国。どこよりも早くに朝陽が届く国。この光の源にその国はある。
青海は名の通り深い青色の水を湛えていると言う。ならば金波宮は陽光に包まれた宮だろう。朝露に濡れた緑はどれほど生き生きとして見えることだろうか。野山を渡る風は擽るように草木を揺らし、葉の触れ合う音を運ぶだろう。葉先から零れる水滴は丸く輝いているだろう。慶は幸いの国だろう。
それは、東風に混じる穏やかではない気配を感じられぬほどに景麒が幼かった頃のこと。
「ああ、景台輔。……あの光の下が慶国なのですね」
「慶は東の国です」
「……やはり、説明になっていないと思うが」
陽子にはそれとわかる心外だとの表情を見せ、景麒は双眸の翠を一瞥する。
「そうでしょうか」
ふと思い出したように付け足す。
「……確かに女仙には叱られました」
「それなのに、また同じことを?」
呆れて丸くなった目が笑みを含む。
幼き日の憧憬を、この麒麟は語らなかった。
今も変わらぬ憧憬。陽の昇る国。
それは、あなたの瞳の色の示すところ。
今も遥か彼方にある緑――。
終
2012.7.4