さくらびと


――雁国に桜があるとは知らなかった。

そう言いながら隣国の女王が長旅の疲れも見せず、晴れやかな顔で玄英宮の禁門に下り立ったのは、春の宵。凌雲山から突き出た殺風景な岩棚で、風に煽られた緋色の髪が翻る。
「高岫で大木を見たけれど、上空からあちこちに見えた薄紅色ももしや桜なのでしょうか」と出迎えた延麒に挨拶も忘れ尋ねた。深まりゆく青に、灯り始めた街の灯りが白沙のごとく散らばる。
「ああ、そうだ。陽子はこの季節に来るのは初めてか」

雁州国でははるか昔から見られてきた風景だった。春は浅紅色の花が咲く。夏はそのやわらかな青葉が木陰を作り、秋に紅に染まって落ちる。冬は樹皮が薄紫の光沢を放つ。里や廬を守る木立の中に必ず桜の老木がある。
「そのようです」

花の季節を迎える頃は、毎年決まって地官府から治水に関する奏上書が上がってくる。だから、この時季に陽子が金波宮を離れるのは初めてだった。慶国の今年の治水計画の主題が昨年から継続されている用水の整備であり、地官と夏官のすり合わせを王の不在の内に進めておくと、大司徒、大司馬の両名が請け合ったため、景王自ら雁国にまだ残る慶からの荒民の処遇を協議するために来雁した。
「ここの園林にもあるぞ。あとで見せてやるよ」

腕を頭の上で組み、ときおり後ろ向きに歩きながら延麒は陽子を掌客殿へ案内する。
「あれ、尚隆の」

呟いた六太は正寝の方角に目を向けた。あれとは桜のことだろう。
「尚隆が路木に願ったんだ」

だから、玄英宮の桜が雁で一番年寄りなんだ、と説明は続く。だけど元気だぜ、とも。





寝返りを打ち、枕にしていた腕を変えた尚隆が明瞭に言った。
「で、どこにあるのだ。その路木とやらは」

転寝をしていると見えた男は少年の話を聞いていたらしい。予期していなかった声に居直った六太は口の中でもごもごと答えた。
「聞いてたのか……」
「枕元で呟かれたら、嫌でも耳に入るさ」

枕元と男が呼ぶのは榻の背もたれだった。玄英宮に入ってから、この男が牀榻を使ったことは、まだ数えるほどしかない。官が求めるあらゆる儀式が可能な限り迅速に行われた。折山の荒にある雁国は、新王に様子を窺せるだけのゆとりを与えなかった。

常世のことを知るはずのない主に、思いつくまま唱えるように自分の知識を寝物語よろしく語り続けるのは金の髪を持つ少年。彼にしても、こちらに戻ってからの歳月を数えるには両手の指で事足りるのだが、女仙からの口承は全てひと言も違わず記憶に残っていたし、蓬山で目にした稀覯書も内容ばかりでなく、その筆跡や記された位置まで覚えていた。

聡い子。あちらでの親にそう評された胎果の麒麟だった。
「福寿殿。おれも行ったことないけど」
「帯一本で国中に撒けるだけの種をくれるという話だろ。なかなか豪気な話ではないか」

鎮めの儀式の後、妖魔こそ出なくなった。しかし、民も耕地もわずか。そのわずかな民の腹を満たす糧にも、耕地に撒くべき種にも事欠く有様だった。登極した新王は手をこまねいたりはせず、文字通り手当たりしだい金目の物を売り払い、目先必要なものを買い求めさせた。

――神頼みって柄じゃねぇよ。

心の中で照れ隠しの悪態をつく。気遣いがくすぐったい。





「どこが豪気だ、天帝のくそったれめが」
「……今のが聞こえたら、ますます実らなくなるんじゃないか」

豪気だと言ったのは天帝自身ではなくおまえだろう、と六太は続けた。白銀の枝に白帯を結び始めてから、徒に一年近くが過ぎた。当てにしている訳ではなかろうが、実らぬ卵果に喧嘩を売られたような気になっているらしい。




そうして、ようやく実ったのが桜だったと延麒が笑った。




掌客殿からほど近い斜面にある鄙びた設えの路亭の支柱に背を預け、延王は杯を手に淡い紅色の花を眺めていた。
「先にやらせてもらってる」

旅装を解いた陽子が六太と一緒に路亭に姿を現すと、新しい杯を陽子にいささか無造作に掲げて見せた。
「どうぞ、お気遣いなく。わたしは下戸ですから」

それでも緩やかに伸ばされた両腕が薄い白磁を受け取る。
「この酒なら、陽子の口にも合うと思うが」

延王自ら片口を取り上げ、深い赤色を白磁に注ぐ。
「いい色……。それに香りが甘い」
「味も甘いんだぜ」

石案に置かれた片口の中を覗き、手を突っ込みながら六太が言う。
「……延王でも甘いお酒を召し上がることがあるとは知りませんでした」

陽子の口にも甘く感じられるその酒は、桜の香りがした。
「これも……桜ですか」

雲海よりも近くに迫る花の海に息苦しさすら覚え、一献を味わうかのごとく瞼を閉じた陽子は尋ねる。
「桜の実でつくる酒」

先ほど口に投げ入れた赤いものは桜の実だったらしい。六太はぷっと種を飛ばす。
「延王の木だと、延麒からお聞きしました」

雁国の桜の話を乞う陽子に、尚隆が語る。
「路木で願うことができると知って、帯を結びまくったさ。桜はそうやって手に入れた」

わずかに顔をしかめ赤い酒を煽ると、器を弄ぶ。
「里を守る樹があるといいと思った。土地は痩せていたし、雁は決して温かい国ではない。何せ見渡す限りの荒野だ。本当は食い応えのある実のなる樹が良いと思ったさ。だがな、これが実らん。桃に柿、杏に梨、枇杷に梅、猿梨や柴栗、胡桃。知る限りの実のなる木を願ったが、駄目だった。雁に元からあるものは路木にはならんようだった。ようやくなったのが桜だ」

食い応えはまったくないな――と女官に運ばせた新しい酒器に手を伸ばした。白磁のぐい呑みを満たす紅からさらに甘い香りが立つ。

酒器の中に実が残っていないことを確認してから、六太は陽子に声を掛けた。
「疲れてんだろ、無理して尚隆につきあうことないぞ。そいつ、下手すりゃ明け方近くまでそうしてるんだから」
「そうだな、まだ明日もある」とそいつ呼ばわりされた男が少女に追い払う仕草をしてみせた。

甘い香りの酒と優しい花色が、寂寞とした光景を尚隆の脳裏に呼び起こす。

花の季節にひとり酒宴を張り、甘さに悪酔いするまで飲むことを儀式と決めていた。



「土産に持っていくか?」

歩きながら飽かず頭上を眺める少女に、少年が古木の幹に早くも足を掛けつつ尋ねた。慶は気候が良いからすぐに根付くだろうと、程良い枝を樹下から物色する。

川面に映る花樹を陽子はひととき夢想する。

――畏怖を覚えるほどに咲き誇る桜花。

――風に舞い散る淡色の花びら。

――地を覆い、流水に戯れる薄紅。

やがて滲み始めた花色に、現に戻る。
「ありがとう。でも」

眦に花の色を移しながら陽子は微笑み、ゆっくりと首を横に振る。
「代わりに、またいつか花の季節に招いてください」

小路を覆う桜木の梢に手を伸ばし、愛しげに花びらに触れる。

――気にする奴がいるから。

好意からの申し出を理由なく断ることが申し訳なかったのか、小さな声が付け足した。

――そんな奴、放っておけば良い。

麒麟には似合わない無情な言葉を六太が飲みこんだのは、小さな声に悄然とした響きがないと気づいたから。温かな声。
「やっかいな奴だな」

代わりに見つけた言葉も気の利いたものではなかったけれど。

花陰で翠の瞳が瞬く。
「うん。やっかいなんだ」

花のように陽子は笑った。



2012.05.14

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